神社のご案内

国宝 神谷神社本殿

神谷神社本殿は三間社流造りの神社として昭和30年に国宝として指定されて現在に至って県内でも数少ない国宝建造物であります。 三間社流造りの本殿は,檜皮葺の屋蓋・ヤリガンナ仕上げの丸柱・面とりの向拝の角柱などに鎌倉時代の建築様式がよく表現されており,この時代の建築としては,我が国最古といわれております。
 大正時代に本殿の修理が行われて何枚かの棟札が見つかりましたが,その1つに建保7年に本殿を再建したことが記された墨書銘がありました。
 このように神谷神社本殿は,鎌倉時代に再建され当時の建築様式を残してきている訳ですが,その名称は更に古い平安時代の「三代実録」や「延喜式神名帳」とった文献にも見い出すことができます。
(坂出市役所ホームページより出典
https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/sangyoukankou/kandanijinjya.html)

神谷神社所有の宝物

神谷神社には,本殿以外にも重要文化財や市指定文化財を所有されており,なかでも重要文化財・木造随身立像二体は,全国的にも珍しい立像で,非常に希少性の高い像といえます。
 このほか写経大般若経・法楽連歌・舞楽面・木造狛犬・神号扁額・棟札などの宝物を所有されており,神社の周辺には多層塔・残念石・経塔など中世を中心とした史跡が数多く残されています。
(坂出市役所ホームページより出典https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/sangyoukankou/kandanijinjya.html)

舞 楽 面

坂出市の指定文化財の中には,奇妙な表情をした幾つかの仮面があります。 現在,青海神社宮氏宅と神谷神社に所蔵されていますが全部で9面が確認されており,それぞれ県・市指定工芸品となっています。
 さて,これらの面は舞楽面と呼ばれていますが,舞楽とは,奈良・平安時代から中世にかけて大陸から伝わった舞踊の1つで貴族の支持を受けて寺院・神社・宮廷の祭礼の祭に上演された音楽舞踊で,古代末ごろから地方へと波及して,地方の古社寺でも上演された踊りです。
 ところで,青海神社宮氏所蔵の舞楽面2面は,二ノ舞の面の尉と嫗で,県指定となっています。 尉は三日月形の目をして口を開いて笑っており,嫗は腫れあがった顔で舌を突き出している表情をしています。 二ノ舞は尉と嫗が案摩の舞をまねて舞おうとするのですが,うまく舞えないといったしぐさの舞で,奇妙な表情で滑稽な演技となるため,舞台に喜劇的な雰囲気を醸し出す舞踊であります。 このほか,蘭陵王,散手面などの舞楽面も保存されています。 尚,二ノ舞面は現在「県立博物館建設準備室所蔵」となっております。

 一方,神谷神社に残る2面は抜頭面還城楽面ですが,抜頭面は,父親をかみ殺した猛獣と格闘し,勝利して喜ぶ様を演じた舞であるとか,逆に虎に殺された父親の屍を見つけて,嘆き苦しむ舞に使用するといわれています。 また,還城楽面は,舞台のうえに小さな蛇を置き,その回りを舞いながら踊る舞踊の祭に使用するといわれています。
 残念ながら舞踊そのものは失われてしまっていますが,このような舞楽面から,綾北の古社寺では,古代から中世にかけて,絢爛な舞楽が催されていたことが想像できます。
(坂出市役所ホームページより出典https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/sangyoukankou/kandanijinjya.html)

大般若心経写経本

概要

坂出市東部、五色台の一峰・白峰山の麓に鎮座する。「神谷」と呼ばれる谷間に位置し、境内の北方を神谷川が流れる。本殿は造営年代が明らかな流造社殿の中では最古のもので[1]、国宝に指定されている。国宝の社殿を持つ神社ではあるが、境内は比較的小さい。そのほか、重要文化財の木造随身立像などの神宝を現在に伝えている。
引用『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。2022年9月2日 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

祭神

主祭神

  • 火結命 (ほむすびのみこと)
  • 奥津彦命 (おくつひこのみこと)
  • 奥津姫命 (おくつひめのみこと)

相殿神

  • 春日四神
    • 経津主神 (ふつぬしのかみ)
    • 武甕槌神 (たけみかづちのかみ)
    • 天児屋命 (あめのこやねのみこと)
    • 姫大神 (ひめおおかみ)
      引用『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。2022年9月2日 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

概史

由緒によれば、当社の位置する渓谷は古来より「神谷」と呼ばれていた。当社の裏には「影向石(えいこうせき)」と呼ばれる磐座(いわくら)が存在しているほか、周辺から弥生土器なども発見されている。

創建について社伝では、弘仁3年(812年)に空海の叔父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)が社殿を造営し、相殿に春日四神を勧進したと伝える。

貞観7年(865年従五位上、貞観10年(868年正五位下に叙せられている。延喜5年(905年)成立の『延喜式神名帳には讃岐国阿野郡に「神谷神社」と記載され式内社に列している。現在の本殿の棟木には、建立された年の建保7年(1219年)の墨書銘に「正一位神谷大明神御宝殿、建保七年歳次己卯二月十日丁未日始之、惣官散位刑部宿祢正長」とあり、この頃には最高位を叙し、地域の崇敬を集めていたと見られている。

明治時代、近代社格制度において郷社に列した。昭和2年(1927年大晦日の夜に、燈明の火が拝殿に引火するという火事が発生した。拝殿は焼亡したが、住民が焼け落ちる拝殿を本殿の反対側に引き倒したため、本殿は難を逃れた。現在の拝殿は翌昭和3年(1928年)より昭和5年(1930年)にかけて再建されたものである。
引用『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。2022年9月2日 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE

  • 貞観7年(865年)10月9日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) – 表記は「神谷神」。
  • 貞観17年(875年)5月27日、正五位下 (『日本三代実録』) – 表記は「神谷天神」。
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